俺には才能がないと言い切れるだけの努力はしたのか‼️ 全くしてなかった己書ご縁道場 川上淳。

大学から大阪に出た。
大阪経済法科大学というところだ。
今では偏差値も上がっているのだろうが、当時は‼️
大きな声では言えないが、名前を書いたら入学出来た。
学校の名前を聞かれても答えるのが嫌だった。
何がしたいでもなく、やりたい事も目標もない。
とにかく、都会に出て遊びたかった。
高校卒業後、就職するなんて考えた事もなかった。
子供の頃から、親父は大学にいけの一点張りだったので、大学に行くのが当たり前だと思っていた。
ただひとつ、思いもかけない誤算があった。
推薦で11月頃に入学が決まっているのに、大学に行かすお金がないときたもんだ‼️
家が貧乏だとは知っていたが、元々決まっていた事だ‼️
ちゃんと段取りしてくれているもんだと思っていた。
超ド級の甘さだ⁉️
一体どうする訳‼️
こんなのがある。
と、親父がパンフレットを差し出した。
それが、新聞奨学生奨学金制度というものだ。
要は新聞配達をして稼いだお金で授業料を払うというものだ。
かなり前から、そのつもりだったのだろう‼️
だったら早く言えよ‼️
お金がないなら仕方ない。
とにかく早く都会に出て遊びたかった。
新聞配達なら高校生の時も少しかじってたし、まあ出来るだろうと思っていた。
超ド級の甘さだ⁉️
4月に入学式があったような気がするが、その2ヶ月程前から、決められた新聞販売所にぶち込まれた。
パワハラどころの話ではない。もはや植民地だ‼️
朝、先輩に叩き起こされた。時計は3:30だ⁉️
こんなに早く起きて何するの⁉️
高校の時の新聞配達のアルバイトは朝5:00に起きれば間に合ってた。
超ド級の甘さだ⁉️
嫌な予感がした。
その嫌な予感はその後、4年間続く事になる。
配達するのは、自転車で380部。
信じられない〜‼️
その前にチラシを新聞に入れていくのだが、これにかなり時間を取られる。
想い描いていた学生生活とは程遠い。
また、クラブ活動は体育会空手道部に入部したため、4年間、真っ青の空も灰色に見えるような生活をおくることとなる。
そんな環境で良い事などあるわけもなく、上手くいかない事がある度に、あの先生を恨んだ。
そう、あの美術の先生だ。
あんな事言われてなければ、今頃俺は有名な画家になっていたに違いない。
その頃、本気でそう思っていた。
超ド級の甘さだ。
今思えば、四六時中、愚痴や不満ばかり言ってるような奴がなれる訳がない。
学生時代については、いずれ詳しく書きたい。
社会人になってから、何がきっかけだったか随分と本を読むようになった。
著名な方々の講演会に行って話を聞くようにもなった。
こんな馬鹿な私にも分かった事がひとつあった。
世に言う成功者と言われる方々は、学校の先生や両親、友達に、
「お前にそんな事が出来るわけがない」
「お前には向いてない」
「寝言を言うな」
などなど、何を言われても、諦めなかったという事だ。
一方、私はどうだ⁉️
何でもかんでも他人のせいにしていた。
それこそ、下やん語録の、
俺には才能がないと言い切れるだけの努力はしたのか⁉️
である。
今思えば、「食えないからやめとけ」と、言ってくれた先生のアドバイスは、かなり確率の高いアドバイスだったような気がする。社会人になってつくづく実感した。
それに私に才能の片鱗でもあれば、それなりのアドバイスをして下さっただろう。
それより何より、問題なのは、私は先生にちょっと言われたくらいで、
自分を自分で諦めたという事だ。
これは、どういうことか⁉️
数え切れないほどのリレーを繋ぎ、私をこの世に生み出してくれた御先祖様への冒涜だ‼️
私は私のDNAを舐め切っていた。
なんで、もっと自分を信じなかった。
出来ないなら、数をこなすだけだ。
こうして私は、己書の幸座を受け絵を描くようになっていった。